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ジガー・スタッツ選手(1897生)のマイナー通算成績wwwwwwwwwwwwwwww

1名無しさん@おーぷん:2017/06/06(火)21:23:26 ID:qPD()
実働18年(1920,1921,1925,1926,1929-1942)
試合数 2790試合
通算打率 ,315
安打数 3356安打
通算打数 10657打数
二塁打 597本
三塁打 136本
本塁打 60本
得点数 1996点
シーズンベスト 199試合 打率,351(291-823) 68二塁打 18三塁打 4本塁打
なおMLBの安打数を合わせると通算4093安打になる模様



76名無しさん@おーぷん :2017/12/29(金)16:17:49 ID:cZv
メジャーならこんな話が
日本語のソースこれしかないし記事書いた本人も翻訳が会っているかわからないと一応注意入れとるけれど

1試合で24失点を喫した投手、アラン・トラヴァースとは何者か?
http://www.akisane.com/entry/Who-is-Allan-Travers
77名無しさん@おーぷん :2017/12/29(金)19:39:15 ID:U8J
>>76
ワイも個人的に調べたけどこれ以外どこにも載ってないな
こういうことがあったのは知ってたけど、どういう人がプレーしたかまでは知らんかったから貴重な話教えてくれてサンガツ
78名無しさん@おーぷん :2018/01/25(木)00:28:31 ID:KS8
オレーター・シェーファー(George W."Orator" Shaffer、1851年10月??日 - 1922年1月21日)
ポジション:ライト・センター
1879年、外野手のシーズン補殺最多記録を作った守備の名手。この記録は140年たった現在も破られていない。
守備に絶対的な自信があったらしく、一度その話題を振ってしまうと自分が満足するまで話してしまうことから皮肉を込めて「Orator(弁士)」と名付けられた。





1851年、ペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれた。プロ入りするまで地元では有望な若手選手として知られており、地元では敵無しだったという。
1874年、その年にできた「ハートフォード ダーク ブルース」というチームに誘われて入団する。9試合に出場すると今度は「ニューヨーク ミューチュアルズ」に引き抜かれ、1試合だけ出場してシーズンを終える。 10試合だけの出場であったが記録は

打率.225(40-9) 1本塁打 3打点 出塁率.225 長打率.300 OPS.525

であった。
翌年、地元フィラデルフィアに戻り、「フィラデルフィア ホワイトストッキングス」に入団。前年よりは出場できたがこれといった成績を残せなかった。
この頃から「弁士」のあだ名がつけられる。
79名無しさん@おーぷん :2018/01/25(木)00:30:26 ID:KS8
1876年、今も存在する「ナショナル・リーグ」が誕生。シェーファーは出来て2年目になって参加し、新興チーム「ルイビル・グレイズ」に入団したシェーファーはついにライトのレギュラーとなり、全61試合に出場。結果、

打率.285(260-74) 9二塁打5三塁打3本塁打 34打点 出塁率.309 長打率.392 OPS.701

を記録する。中でも補殺はリーグ新記録となる21回記録する(ちなみに日本記録は131試合に出場した日下隆の23回)。また、本塁打は1位と一本差で本塁打王を逃している。
守備の名手として一躍チームの顔となるが4人の選手が八百長に関与しためチームは解体、シェーファーは解体した球団の変わりとしてマイナーリーグから引き揚げられた「インディアナポリス・ブルース」に移籍する。
インディアナポリスでは63試合に出場して

打率.338(266-90) 19二塁打6三塁打 30打点 出塁率.369 長打率.455 OPS.824

を記録、その年の強打者たちと肩を並べる成績を残す。補殺は前年度より多い28回記録。
ただ、インディアナポリスは弱小、不人気が理由でシーズン終了とともに解体される。
80名無しさん@おーぷん :2018/01/25(木)00:34:59 ID:KS8
次に「キャプテン」の由来となったキャップ・アンソン率いる「シカゴ・ホワイト・ストッキングス(現シカゴ・カブス)」へと移籍しようとする。契約を無事終えて「いざシカゴへ!」と意気込んだが、ここである問題が発生する。
前年、シェーファーはインディアナポリスとの間に借金を作っており、まだ返済し終えていなかったという。元球団重役は、今シカゴにいってしまったら借金話はなかったことにされてしまうという理由で「返済するまで」インディアナポリスへの滞在するように訴える。
早く返済すればいいだけの話なのだが、当のシェーファーは早く試合に出たかったのでインディアナポリスからの脱出を決意してしまう。

彼が考えた脱出の手順は
『移籍先のチームがインディアナポリスへ試合をして次の町へと向かう。それの乗じて町を脱出して次の町でさりげなく合流しよう』
というクッソ単純なものであった。なお、脱出はシェーファー1人だけではなく、同じような理由で町に留まっていたシルバー・フリントという選手も一緒に参加することになった。類は友を呼ぶ、はっきりわかんだね。


作戦当日、地元保安官からの追跡を逃れるため馬車を借りて荷物運びんk変装して町から脱出。そして、わざと遠回りの道を通って昼夜問わず走ったところ、チームより先に町に着くことに成功。
後はさりげなく合流して脱出は成功に思えたが、キャップは二人が借金を理由にチームに合流できなかったことを知っていたので、「反省」させる名目で刑務所に身柄を渡したという(数日後に釈放)。

シーズン途中からの加入であったが、73試合に出場して
打率.304(316-96) 13二塁打 35打点 出塁率.317 長打率.345 OPS.662

を記録。さらに、この年に、最初に話したシーズン補殺50回記録している(二位の選手と20回も差がある)。

シーズン終了後、あの逃走劇が災いしたのか、ホワイトストッキングを退団する。その後、「クリーブランド・ブルース」というチームに移籍している。
81名無しさん@おーぷん :2018/01/25(木)00:35:26 ID:KS8
クリーブランド時代は彼の経歴で初めて複数年在籍しており、最終的に3年間在籍している。
この三年間で、
補殺が35、24、17
併殺となるプレーを5、4、2
刺殺は128、122、111
それぞれ達成している。

なぜこうも守備成績がいいのか言うとシェーファーは今ではありえないほど前に来て守っていたといい、そのために守備の名手として名を残せたという。

3年間在籍したチームを後にしたシェーファーは「バッファロー・バイソンズ」に移籍する。ここでは一年だけ在籍して、

95試合出場打率.292(401-117) 11二塁打3三塁打 41打点 出塁率.336 長打率.334 OPS.671 補殺41回 刺殺182回

を記録。打撃はともかく、守備成績は上がっている謎。
82名無しさん@おーぷん :2018/01/25(木)00:36:08 ID:KS8
次にシェーファーはナショナルリーグとは違うリーグ、「ユニオン・アソシエーション(UA)」を設立したオーナー、ヘンリー・ルーカスに誘われて「セントルイス・マーリンズ」へ移籍する。ここでシェーファーは106試合に出場して

打率.360(467-168) 40二塁打10三塁打2本塁打 出塁率.398 長打率.501 OPS,899 補殺40回 刺殺132回

という成績を記録する。
ただ、UAはマーリンズのオーナールーカスが莫大な遺産を相続した後に作り上げたリーグで、ルーカス自身経営者としては無知に等しかった。ルーカスは所有するマーリンズの強化だけに腐心してしまったため、リーグは2年で消滅してしまい、マーリンズもリーグ消滅とともに解体される。

1886年、シェーファーは故郷へ戻って「フィラデルフィア・アスレチックス」へ移籍する。だが、衰えを隠すことができず、この年限りで退団、それから3年間は同行が分かっていないが1890年にアスレチックにいきなり戻り、100試合に出場して

打率.282(390-110) 15二塁打5三塁打1本塁打 58打点 29盗塁 出塁率.367 長打率.354 OPS.720 補殺19回 刺殺169回 併殺6回

と39歳とは思えない成績を記録して現役引退している。
引退後は競馬場で働き、1922年1月22日に死亡。享年70歳。
83名無しさん@おーぷん :2018/01/25(木)00:39:57 ID:KS8
通算成績:プロ生活13年
871試合出場 打率.282(3552-1000) 164二塁打53三塁打11本塁打 317打点 出塁率.326 長打率.367 OPS.693 補殺290回 刺殺1309回 併殺32回
・シーズン補殺数(外野手)記録50回、シーズン補殺数最多:4回(1877、1879、1880、1883)
補殺数は歴代でもトップテンに入る。





ある日、彼の同僚が「どうして正確な送球が出来るのか」について聞いたとき、

「俺は気に入らない男を当てるつもりで投げて、しかもほとんど的確に命中することができるんだ。命中できた場合、俺はいつも『オレーター・シェーファーは素晴らしい外野手である』って考えているんだよ。バイソンズにいた頃も2試合も連続して出来たときはヤバかったね」
と、話している。また、引退した後に自分の野球人生を
「(自分は)一番の外野手だろうね」
と話している。

この傲慢さとプロとしての考えがかけている態度は、あの時代に見事マッチしていると思う。
84名無しさん@おーぷん :2018/01/25(木)00:40:31 ID:KS8
正直、今までまとめた中で一番面白い選手だった
85名無しさん@おーぷん :2018/01/25(木)00:54:36 ID:MLj
ハートフォード・ダーク・ブルース
かっこいいい名前
86名無しさん@おーぷん :2018/01/25(木)07:39:51 ID:3bQ
まさに「うーんこの」といいたくなる身勝手ぶり
87名無しさん@おーぷん :2018/01/25(木)16:31:36 ID:zC3
漫画のキャラみたいなのがいっぱんいたんやなぁ
88名無しさん@おーぷん :2018/03/28(水)23:03:07 ID:YHy
リップマン・パイク(Lipman Emanuel Pike、1845年2月25日 - 1893年10月10日)
ポジション:センター・セカンド
19世紀中頃、MLBの創成期、それ以前から存在していたプロ野球選手であり、史上初のユダヤ教徒のプロ野球選手。





1845年、ニューヨーク在宅のオランダ人系移民の家庭で生まれる。父母がユダヤ教であったため、パイクは生まれてすぐにユダヤ教徒となる。その後ブルックリンで育つ。
13歳で当時出来たばかりの野球をやり始め、20歳になると地元チーム「ブルックリン・アトランティックス」に入団。
1年だけの在籍であったが、ここでのプレーが注目され、アマチュア野球の強豪であった「フィラデルフィア・アスレチックス(1860年創設)」へ移籍する。
持ち前のパワーと走力でランニングホームランを量産してチームに貢献。ある試合では6本塁打記録したという記録が残っている。


しかし、1866年にパイクと2人のチームメイトが1週間で20$(現在で334$ほど。ネタじゃない)の報酬を貰っていたことが露見してしまい、アマチュア選手としてあるまじき行為として他の2人共々チームを追放される。
だが、パイクたち以外にも報酬を貰っていた選手が次々に露見し、アメリカアマチュア野球界は大混乱を極めてしまう。
その後、

1868年、プロ選手に対する正式な規定が制定。
1869年、報酬をもらうプロ選手だけで構成されたシンシナティ・レッドストッキングスが誕生。
これ以降、アマチュア野球は下降に一途を辿ってしまう。

これを見るに、パイクはアメリカの野球を変えるきっかけとなった選手でもある。
89名無しさん@おーぷん :2018/03/28(水)23:05:17 ID:YHy
問題のさなか、パイクは人目を避けてニュージャージー州に避難していたという。
混乱するアマチュア界を他所に1867年、「ニューヨーク・ミューチュアルズ」に移籍。
1年半在籍したが、当時の民主党派閥の一つ「タマニー・ホール」の会長であるウィリアム・トウィードに目をつけられてしまい、地元ブルックリンに避難する。
避難した後、4年前に在籍していたアトランティックスに再び帯同して、主将を任される。
2年間帯同中して打率.610を記録し、最終年となった1870年はシンシナシティで93試合連続勝利を記録している。


1865年、アトランティックスの選手一同の集合写真。パイクは20歳。



90名無しさん@おーぷん :2018/03/28(水)23:08:06 ID:YHy
1871年、プロ選手リーグ「ナショナル・アソシエーション」が創設されると、パイクは「トロイ・ヘイメイカーズ」に選手兼任監督として入団、同時に主将も任される。
一年目は28試合に出場(チーム試合数は29試合)して

打率.377(130-49) 10二塁打7三塁打4本塁打 39打点 3盗塁 出塁率.400 長打率.654 OPS1.054

を記録して、「ナショナルアソシエーション」創設初年度の本塁打王に輝くが、チーム成績は9チーム中6位と振るわず終わっている。


1872年、理由は定かではないが(前年に脱退した分の球団を作るために移籍させられたと予想される)、「ボルチモア・カナリーズ」に入団。
この年カナリーズに入団した選手はパイクの他に、「後に297勝を挙げるスピットボーラー」ボビー・マシューズという有力選手のおかげもあって投打がかみ合い、11チーム中2位を記録する。
パイクは56試合フル出場して

打率.298(285-85) 15二塁打5三塁打7本塁打 60打点 10盗塁 出塁率.308 長打率.460 OPS.768

を記録し、本塁打王、打点王の二冠王に輝く。
2年目はマシューズが退団するが、「カーブの考案者」キャンディ・カミングスの移籍のおかげでチームの弱体化は免れる。
この年も例年同様の活躍をみせ、56試合に出場(フル57試合)に出場して

打率.316(285-90) 15二塁打8三塁打4本塁打 51打点 8盗塁 出塁率.334 長打率.467 OPS.801

を記録して3年連続本塁打王に輝く。


1872年、カナリーズの選手たち。パイクは一番左端だと思われる。



91名無しさん@おーぷん :2018/03/28(水)23:09:40 ID:YHy
しかし、カナリーズの親会社が1873年のシーズンオフに倒産してしまい、親会社を持たない球団となってしまう。パイクは給料を貰える見込みがなくなったため、他の主力選手とほぼ同時期にカナリーズを去っている。
カナリーズの後は新興球団「ハートフォード・ダーク・ブルース」に移籍して監督、主将を兼任する。52試合に出場して

打率.355(234-83) 22二塁打5三塁打1本塁打 50打点 4盗塁 出塁率.368 長打率.504 OPS.872

を記録し、リーグ最高長打率を記録する。
しかし、チーム成績は16勝37敗、順位は8チーム中7位と散々なる結果で終わってしまった。あまりの弱さにパイクは監督、主将という立場を放棄してチームを去っている。
ここまで来ると察する人物もでてくると思うが、選手としての才能はあり、監督としての才能がまったくない人だとわかる。


退団してすぐ、新興球団「セントルイス・ブラウン・ストッキングス」に入団。
この年のパイクは本塁打こそなかったが

70試合出場 打率.346(312-108) 22二塁打12三塁打 44打点 25盗塁 出塁率.352 長打率.494 OPS.846

と、見事なアベレージヒッター変身している。

チームも39勝29敗で全体13チーム中、4位と奮戦する。
ちなみに前年に見捨てたダーク・ブルースは、元同僚のカミングスを迎え入れたおかげで、54勝28敗で最終順位は3位と、パイクにとって面白くない結果に終わっている。
92名無しさん@おーぷん :2018/03/28(水)23:11:18 ID:YHy
1876年、「ナショナルアソシーション」は脆弱すぎる運営陣、参加球団の倫理観念の欠落、非人道的な補強や放出、八百長、賭博の横行などを理由に創設4年目にしてリーグは解体する
(ちなみにパイクは5年間で15本の本塁打を記録しており、これは「ナショナルアソシエーション」に在籍した選手では最多記録となっている)。
そうして同年、ナショナルアソシエーションで起きた欠点を改善していったリーグ、「ナショナルリーグ」が誕生する。

そんな時パイクはセントルイスを抜けようとしようとしたらしいが、チームに引き留められてしぶしぶ残留したという。しかし結果は、45勝19敗で8チーム中3位と好成績を収めている(なお、ハートフォードは2位)。
シーズン終了後、すぐに退団して「シンシナシティ・レッズ」に移籍する。
ただ、レッズは1876年に9勝56敗記録する弱小球団で、パイクはこのチームに入るのは本当に嫌だったらしいが、31歳と当時じゃ高齢選手を理由に契約を結んでくれる球団がないため、泣く泣く契約を結んだという。
さらに、レッズはパイクを監督に任命してしまう(といっても3人制である)。レッズの最終成績は15勝42敗で2年連続で最下位が確定、パイクは58試合に出場して

打率.298(262-78) 12二塁打4三塁打4本塁打 23打点 出塁率.321 長打率.420 OPS.741

を記録して打撃十傑にほぼ上位ランクイン、自身4度目の本塁打王を獲得するなど、もはや形式美である。
93名無しさん@おーぷん :2018/03/28(水)23:12:54 ID:YHy
1877年、パイクは32歳となっていた。今では選手として脂の乗り切った時期ではあるが、当時はもう引退してもおかしくない年齢で、パイクはナショナルリーグで8番目に高齢な選手となっていた。
1878年のシーズン前には4番目になり、老いたパイクは全盛期の力も出せなくなっていたという。
チームはパイクを監督職をやめさせ、20歳の新鋭でイタリア系アメリカ人、バターカップ・ディッカーソンと競わせることにした(ちなみに、メジャー初のイタリア系の選手)。
しかし結果は、若くて足も速い、長打を量産できるディッカーソンに対して、リーグ4番目の高齢選手、率は高いが長打が打てないパイクはディッカーソンに敗れる。
控えに甘んじるようになったパイクはシーズン途中、新興球団である「プロビデンス・グレイズ」に移籍する。新興球団であったがパイクは5試合に出場するだけに終わり、同年限りでチームを退団している。
94名無しさん@おーぷん :2018/03/28(水)23:13:48 ID:YHy
退団後は1879年に、はっきり言ってよくわからないマイナーリーグの「スプリングフィールド」「ホルヨーク」「オールバニ」という3チームに在籍したという記録が残っている。
記録は試合数、打数、得点、安打と打率しか明らかになっていないが

53試合出場 打率.357(230-82) 49得点

を記録している。
1880年も引き続き、このリーグで「オールバニ」「ロチェスター」の2チームに在籍しており

25試合に出場、打率.210(119-25) 5三塁打1本塁打 出塁率.210 長打率.319 OPS.529

を記録する。成績を見るに、マイナーリーガー相手でも老いによる衰えを隠せずにいるが、脚力の衰えを感じさせていないことが分かる。
(ロチェスター時代は1試合だけ出場して4打数無安打を記録しているだけ)
95名無しさん@おーぷん :2018/03/28(水)23:15:16 ID:YHy
1881年、短期間であるがナショナルリーグの「ウースター・ルビーレッグス」というチームに復帰する。
この時パイクは36歳を迎え、4度の本塁打王に輝いた男がリーグ最年長として復帰したことである程度評判を呼んだが、パイクは全盛期を姿を感じさせられない、お粗末なプレーしか出来なくなり

5試合に出場 打率.111(18-2) 長打0 1得点 出塁率.273 長打率.111 OPS.384

という結果に終わってしまう。
さらに、同年9月にナショナルリーグの禁止事項を破っていたことが発覚し(何を破ったのかは不明)、パイクはナショナルリーグから永久追放、二度とナショナルリーグと関わることはなかった。
多くのファンに顰蹙と失望を与えるという、最悪の結果に終わってしまったパイクは地元ブリックリンに戻り、父の後を継いで雑貨店に勤務する。
96名無しさん@おーぷん :2018/03/28(水)23:15:50 ID:YHy
1887年、ナショナルリーグとは一線を画していたアメリカン・アソシエーションに所属する球団「ニューヨーク・メトロポリタンズ」に入団する。この時42歳、もちろんリーグ最年長選手となる。


なぜ引退して6年が経って誘われたのかというと
メトロポリタンズは当初、チェンジアップを発明した後300勝投手になったティム・キース要した強豪球団だった。
そんな時、球団オーナーだったジョン・B・デイとジム・マトリー(監督兼任)がメトロポリタンズの他にもう一球団ゴサムズ、というナショナルリーグ所属のチームを所持していた。
ゴッサムズは強くも弱くもないという特徴のないチームで、強豪だったメトロポリタンズと比べると地味なチームだった。
しかし、ゴッサムズが唯一メトロポリタンズに勝っていたのが「収入面」だった(これはナショナルリーグはアメリカンアソシエーションより入場料が高いため)。
そこに目を付けた二人のオーナーは、1884年にリーグ優勝を達成したメトロポリタンズの主力選手をごっそりゴッサムズに移籍させるという今からしてみればドン引き行為を行っている(ゴッサムズは後に現在の「サンフランシスコ・ジャイアンツ」となる)。
この移籍させられた選手の中にキースも含まれており、主力を無くしたメトロポリタンズは44勝64敗で7位と弱小球団となってしまった。
成績は年々下がり、もう後がないというときに、監督だったボブ・ファーガーソンが同郷で馴染みのあったパイクの存在を思い出したというのがきっかけだという(ファーガーソンとパイクは同い年)。
パイクは1試合だけに出場して4打数無安打で終わり、彼はプロとしてのキャリアを終える。
97名無しさん@おーぷん :2018/03/28(水)23:16:21 ID:YHy
その後、再び雑貨屋を営み続け、1893年に心臓病によりブルックリンで死去。満48歳。
パイクの死に、ブルックリンの地元紙は
「多くの裕福なヘブライ人、著名な政治家、知人、同僚が葬儀に参列する」
と、記されたという。
98名無しさん@おーぷん :2018/03/28(水)23:16:44 ID:YHy
通算成績:MLB実働10年
425試合出場 打率.322(1979-638) 120二塁打53三塁打21本塁打 332打点 50盗塁(4シーズン盗塁数不明) 出塁率.339 長打率.468 OPS.808







パイクの走力はリーグ一と言われ、時たまに行われる賞金が貰える徒競走が行われると、必ず優勝していたという。
1873年8月16日ボルチモア、野球場で繋愕速歩競走最速と呼ばれた競走馬と100ヤード走を行うという企画が行われる。
パイクは競走馬と10秒も差を開ける圧勝で、250ドルを獲得している(現在の価値で54万2579円)。
99名無しさん@おーぷん :2018/03/29(木)12:19:50 ID:0IR
無能監督なのに何度も任されるの草
100名無しさん@おーぷん :2018/04/25(水)22:51:11 ID:hsL
メジャー関係で面白い記事見つけたので乗せておく
101名無しさん@おーぷん :2018/04/25(水)22:51:41 ID:hsL
通算出場“わずか1試合”の野球人生
https://baseballking.jp/ns/column/146293

肝心の記事貼る前に送信してしもうたわ
102名無しさん@おーぷん :2018/04/25(水)23:55:24 ID:Bz7
>>101
サンガツ
パチョレック兄の話は知っていたけどヨーントに兄貴の話は知らんかったわ
記事にも出たムーンライト・グラハムのように守備機会が与えられて打席に立たなかった打者は可能性はなくもないだろうけど、ヨーント兄のように投手としては彼の他にいないんだろうね
103名無しさん@おーぷん :2018/05/15(火)23:23:32 ID:afv
ワイにとって一番魅力を感じる選手で、大好きなメジャー選手
104>>104より始まる :2018/05/15(火)23:24:04 ID:afv
ルーブ・ワッデル(George Edward "Rube" Waddell, 1876年10月13日 - 1914年4月1日)
ポジション:ピッチャー
設立したばかりのフィラデルフィア・アスレチックス(以下A's)を支えた投手で、メジャーで4人しかいない6年連続奪三振王を記録した1人でもある。
成績以上に彼は常軌を逸した行動をすることで知られ、その多くが伝説となって今も伝わっている。








1876年10年13日、ペンシルベニア州の田舎町ブラッドフォードの中でもさらに田舎とされている地区に産まれる。
幼少期から「他の子とは何かが違う子」とされていたらしく、彼に関する一番古い記録は

「3歳の時に地元消防署に潜り込んでそこで数日間過ごした」

という。早速ぶっ飛んでいる。
学校には通っていたが、毎日のように学校を抜け出しては消防団の活動などの観察、野球のプレーや観戦、釣りなどをして暮らすなどしていた。ほぼ無学なのになぜか読み書きが出来る、遊びはするが親や町民の手伝いをよくしていたので

「変わってはいるが無害な子」

という程度の認識で終わったので特に蔑まれることはなかった。
また、当時ブラッドフォードには畑を荒らす野鳥が何羽も存在し、その野鳥が現れるごとにワッデルは村人に頼まれては石を投げて撃退して、この経験が彼のちの成功に結びついたという。
105>>104より始まる :2018/05/15(火)23:24:52 ID:afv
多趣味だったワッデルは中でも野球にのめり込み、頭角を現していった。
その才能が評価され1897年、500ドル(現在で380万円だと思われる)でルイビル・カーネルズというチームに入団。
しかし、後述する奇行が理由で2試合だけ登板しただけでシーズンを終えてしまう。さらに、「プロとしての経験を積ませる」という名目でデトロイトにあるマイナー球団に貸し出されてしまう。ようは厄介払いであった。
だが、移籍先のチームが彼の奇行に耐え切れなかったため、ワッデルはルイビスに送り返され、1年でチームに復帰してしまう。復帰したのはシーズン最後の月だったが、ワッブルたった1ヶ月で9先発9完投7勝2敗という記録を残している。
ただ、チームがその年限りで消滅したため、1900年にピッツバーグ・パイレーツに移籍するなど、落ち着いて野球が出来ずにいた。


若い頃のワッデルを知る選手によると 「神出鬼没な奴だった。あいつの行動なんて予測なんかできるわけない。」 と話している。
この頃の行動として、


・先発登板なのに、釣りがしたいからという理由で気が付いたらいなくなっている。
・子供のころから消防車が大好きだったため、サイレン音を聴いてしまうと居てもたってもいられなくなり、球場を抜け出し、時には走ってまで火災現場まで着いていく。
・オフシーズンは何をしていたかと聞かれるとワニとレスリングしたと自慢する。
・重度の飲酒癖で新聞社からは「酒まみれの男」というあだ名が作られた。
・珍しく集中して試合に臨んだおかげで完璧に抑えていたが、相手ファンが子犬と光沢した像をワッブルに見せつけたため、それが気になって正面のゴロさえさばけなくなってしまう。


まだまだあるが、判明しているものだけでもこれだけある。
これらの行動はファンや一部のチームメイトには馴染まれたものの、監督、球団経営者にチームメイト達とは対立し、乱闘騒ぎに発展することもあった。そのため、彼は当時では珍しい金銭問題以外での移籍が多かったと伝えられている。

※前述のエピソードを元に作られた絵



106>>104より始まる :2018/05/15(火)23:25:36 ID:afv
ピッツバーグに移籍するとついにローテの一角として活躍し始め、リーグ最高の防御率とWHIPを記録。最終的成績は

29登板22先発完投16完投 .381(8勝13敗) 防御率2.37 208.2回 130奪三振 WHIP1.11

という十分な結果に終わる。しかし、ワッデルの奇行は新チームでも改善することはなく、日が進むにつれてチームメイトに不快感を与えるようになり、対立している姿が目に見え始めた。
特に監督のフレッド・クラークとは前チームから監督と選手という関係だったが二人はどうも気が合わなかった。
パイレーツが首位争いをしていたシーズン終盤、クラークはこの緊迫した状態にワッデルという存在がチームに悪影響を与えてしまうと判断し、ワッデルを無期限の出場停止処分を下す(結果チームは2位に終わる)。

処分中、ワッデルはピッツバーグから離れた田舎町でセミプロ相手にその日の野球をするなど、その才能を持て余して暮らしていたという。
しかしこの出場停止処分中、ワッデルは今後の生涯を決める恩師と出会う。その恩師とはコニー・マック、のちに50年間メジャーリーグの監督を納めた人物である。




マックとワッデルの出会いは1900年8月19日、ミルウォーキーで行われた試合であった。この日はダブルヘッダーで、ワッデルは初戦に登板して17回を投げる力投と、最後は自身の勝ち越し三塁打を放って終えるなどの大活躍だった。
当時ミルウォーキーで監督業を営んでいたマックは間近でワッデルのプレーを見て、ワッデルが他の選手にはない並外れた才能を持っていることを確信したという。
さっそくマックは情報収集を始め、集めた情報はどれも魅力的な話があったが、やはりワッデルの異常な行動を聞いて獲得を躊躇したという。
しかし、マックはその行動を逆に利用するある考えを思いつく。まず、チームOBという経歴を利用してパイレーツ上層部と面会。「頼みたいことがある」という前置きを置いて、



「彼は試合を放棄するほど釣り好きなんだろ?だったらそれを利用して、『5イングを無失点で切り抜ければ3日間釣りしていいよ』って伝えるんだ。」



という提案をしたという。上層部は3日間ワッデルがいないなんて願っていなかったことなのでマックの案はすぐに採用される。ワッデルの方もすぐに承諾したという。
結果、ワッデルは5回を完璧に抑え、約束どおり釣りに出かけ、思う存分釣りをしたという。
107>>104より始まる :2018/05/15(火)23:26:28 ID:afv
完全にワッデルに惚れ込んだマックは扱いに困っているのならすぐに自分のチームに譲るように頼むが、パイレーツ側はワッデルの飼いならし方を知ったから譲ることはできないという。
しつこく頼み込んでも譲らなかったためその場は引いたが隙さえあればすぐに獲得しようと決意したという。


話は戻って無期限出場停止処分を受けて暇で金がなかったためセミプロチームを渡り歩いていたワッデル。これを聞いたマックはこれを好機と言わんばかりにワッデルの獲得に動き出す。
同じ場所に何日も滞在するような男ではないので見つけるのに困難だったというがついに見つけ、獲得に成功する。
ミルウォーキーのチームが所属するリーグを格付けするとマイナーリーグの位置にあり、ほぼメジャー級であったワッデルは向かうところ敵なしであった。時期が時期だけに、1カ月だけの滞在だったが


15登板14先発13完投 .769(10勝3敗) 防御率不明 129回 75奪三振 WHIP0.85

という圧倒的な力を見せている。
ミルウォーキーという土地、チームを大変気に入っていたワッデルはこのまま滞在することも考えるまでに至り、マックもこのままミルウォーキーにいさせようと画策するが、ピッツバーグ側がワッデルをこのまま雇おうとしていることを知り、ワッデルに契約違反であると訴えてしまう。
最終的にワッデルは連れ戻されて、マックの計画は崩れ終わってしまう。
108>>104より始まる :2018/05/15(火)23:26:55 ID:afv
パイレーツに復帰したワッデルも散々なものだった。2試合に先発登板したワッデルは

.000(0勝2敗) 防御率9.39 7.2回 奪三振4 WHIP2.48

散々なものである。ミルウォーキーで無双していたと聞いて期待していた球団上層部は落胆するが、これを理由にして追い出すにはいい条件と判断した。
2試合目を終えてすぐに
「ワッデルはこれ以上成長する見込みがないだろう」
という表向きの見解を述べて、ワッデルをシカゴ・カブスと無償トレードを成立させる。
カブスでは14勝14敗と奮戦するが、カブス監督はワッデルを操作する力を持ち合わせていなかったため、カブス時代は放し飼いされた狂犬のごとく自由奔放に暴れていたという。
シーズン終了すると「問題行動」を理由に解雇される。解雇された後は、北イリノイ州、南ウィスコンシン州でセミプロチームに加入したり、アメリカを放浪していたという。

ちなみに、ワッデルを放出したパイレーツはというと、打撃では後の3000安打打者であるホーナス・ワグナーを筆頭にレギュラーメンバーだけで打率,312という打線で猛打を振るい、20勝二人、10勝では4人の投手陣で90勝47敗で近代野球に入って初の優勝を達成なっている。
別にこの躍進はワッデルがいなくなったからとは言はないが、彼がいなくなってここまで活躍するのは露骨である。


※シカゴカブス時代のワッデル



109>>104より始まる :2018/05/15(火)23:27:33 ID:afv
この頃になると中部アメリカでワッデルを雇ってくれるチームはいなくなったので、思い切ってカルフォルニアに飛んだという。
西海岸の空気は彼の肌に合ったらしく、ここ数年で一番伸び伸びとした気持ちで野球をしていたという。


※ロサンゼルス時代のワッデル(後列中央)







ところ変わってコニー・マック。
1901年に新興球団A'sの監督に就任したマックは、破格の契約金で獲得したナップ・ラジョイとチック・フレイザーの存在もあって最終順位は8チーム中4位と健闘したが、圧倒的に投手力がないことを痛感する1年となった。
オフには前述した契約が裁判沙汰となり、ラジョイとフレイザーを放出。打撃と投手の要を無くしたA'sは危機的状況に陥ってしまう。
特に、フレイザーの退団は惜しく、他に有能な投手といえば後の300勝投手となるエディ・プランクがいたが、このままでは来シーズンはプランク一人頼りになってしまうことにマックは途方に暮れてしまう。だが、マックはあのワッデルの存在を思い出す。
マックはどうにかして開幕までにワッデルを獲得するべく、探偵集団として名をはせた「ピンカートン探偵社」にワッデル捜索を依頼してワッデルの捜索を開始。
捜索の結果、カリフォルニアにいることを突き止め、なんとかシーズン開幕前には間に合わせたという。
ここからワッデル、およびA'sの快進撃が始まる。
110>>104より始まる :2018/05/15(火)23:28:46 ID:afv
シーズン前に足を怪我して開幕には出遅れたが、ワッデルはすぐに復帰し、休んだ分を取り返すかの如く活躍した。最終成績は


33登板27先発26完投3完封 .774(24勝7敗) 防御率2.05 276.1回 210奪三振 WHIP1.04


を記録して、設立2年目のチームを初優勝へと導く活躍をした。
その後も、


1903年 39登板38先発34完投4完封 .568(21勝16敗) 防御率2.44 324回  302奪三振 WHIP1.11 最多完投最多奪三振
1904年 46登板46先発39完投8完封 .568(25勝19敗) 防御率1.68 383回  349奪三振 WHIP1.04 最多奪三振(左腕歴代4位、AL左腕最多記録)
1905年 46登板34先発27完投7完封 .730(27勝10敗) 防御率1.48 328.2回 287奪三振 WHIP0.98 投手三冠王


という圧倒的な成績を残していき、2度のアメリカンリーグ優勝に貢献した。


ワッデルの活躍はコニー・マックの存在が大きいという。今までだと、彼の奇行に堪えてほったらかしにされていたが、マックの忍耐強い指導のおかげでワッデルは一流選手として成長したという。
また、マックは今まで活躍できなかった理由に他人と分かち合える精神的余裕がなかったと考えて、問題行動の多さから多くの球団を渡り歩き(ようはワッデルと同類)、ワッデルの数少ない旧友でもあったオシュー・シュレッケンガストを獲得する。
マックはシュレッケンガストをワッデルのルームメイトに指名し、ワッデルのよき理解者として彼を支えたという。


※左下で胡坐をかいている人物がワッデル、真ん中の背広を着た人物がマック
ttps://i.imgur.com/SLkekRV.jpg
111>>104より始まる :2018/05/15(火)23:29:58 ID:afv
しかし、ワッデルの活躍をそう長くは続かなかった。
ワッデルの活躍で1905年のワールドシリーズに駒を進められたが、当のワッデルはシーズン終盤、列車の中でチームメイトとふざけあっているうちに麦わら帽子を踏んで転倒、肩を怪我してしまい出場できなかった。
この怪我は思いのほか深刻だったらしく、これ以降ワッデルの成績を低迷させた理由の一つとなった。
また、1905年オフに結婚してからその飲酒癖はさらに悪くなり、ワッデルの奇行に慣れてきたチームメイトと亀裂を呼ぶことになり、これも成績が低迷した理由の一つとなった。


1906年 43登板34先発22完投8完封 .469(15勝17敗) 防御率2.21 272.2回 196奪三振 WHIP1.15
1907年 44登板33先発20完投7完封 .594(19勝13敗) 防御率2.15 284.2回 232奪三振 WHIP1.08 


1907年オフ、チームメイトの不満は限界に達してワッデルを放出するように訴えるチームメイトがマックの元へ駆けつけた。
そして彼らに押される形でマックはワッデルを放出することを決める。せめて選手として続けさせようと他球団への移籍先を探すが、どこも彼を取ってくれる球団は見つからず5000ドルで後のボルティモア・オリオーズとなる球団が引き取ってくれた。



>>110
の画像



112>>104より始まる :2018/05/15(火)23:30:52 ID:afv
移籍先のオーナーはシーズンオフの問題行動を起こさせないためにハンターとして雇うなどしてワッデルを監視し、自由の利かない環境ではあったが力の衰えたワッデルはチームを支え、

43登36板先発25完投5完封 .576(19勝14敗) 防御率1.89 285.2回 232奪三振 WIHP1.10

を記録するなどチームに貢献する。
しかし、ワッデルの飲酒癖を直すことはできず、成績は次第に低迷する。
最終年となった1910年は10試合に登板しただけでシーズンを終え、やはり「問題行動」が理由で解雇されてしまう。
彼の悪評はメジャーリーグのすべての球団に知られていたため、二度とメジャーリーグに戻ることはなかった。


選手生活晩年のワッデル



113>>104より始まる :2018/05/15(火)23:32:50 ID:afv
ただ、メジャーを去った後でもマイナーリーグからの誘いはあったらしく、3年間で37勝を挙げる活躍を見せたが、長年の無茶な食生活で全盛期の筋骨たくましい体は見る影もなくなり、苦しい表情を浮かべながら投げていたという。

メジャー引退後3年目のマイナー生活、トレーニングの一環でケンタッキー州の都市部に訪れていた時、ある村が川の氾濫で洪水が発生していると聞いてワッデルは土嚢を積み上げる作業を手伝いに向かい、村が洪水に飲まれるのを防いだ。
しかし、これが元で結核を患い彼の姉がいるテキサス州サンアントニオという街に搬送されて療養生活を送るが、その甲斐なく1914年4月1日死亡する。享年37歳。


※彼が死ぬ間際、生前最後の写真





ワッデルの死は、この時テキサスでキャンプをしていたコニー・マックに伝えられた。マックは同じく合同キャンプを行っていたニューヨーク・ジャイアンツのジョン・マグロー相談して、お金を出し合ってワッデルの墓に石の墓標を立てたという。
114>>104より始まる :2018/05/15(火)23:34:19 ID:afv
通算成績:プロ実働13年
407登板340先発261完投50完封 .574(193勝143敗) 防御率2.16 2961.1回 2361奪三振 WHIP1.10
投手三冠王:1回
最多勝:1回
最優秀防御率:2回
最多奪三振:6回









53年物監督生活を終えたコニー・マックは晩年、
『あなたが今まで見てきた選手で最高の選手は誰ですか?』
と聞かれるという質問をされた。マックは



「ワッデルだ、あいつこそ史上最高の投手だ。」


と、答えた。さらに記者は、ワッデルはどんな男だったかと聞くと、



「例えるなら原子爆弾みたいだった。良くも悪くも、評判になる、眼が離せない男だった。」



と、答えている。
115名無しさん@おーぷん :2018/05/16(水)12:35:37 ID:00i
凄い選手やな
116名無しさん@おーぷん :2018/08/29(水)21:01:25 ID:h7I
ロン・リフロア(Ronald LeFlore,1948年6月16日 - )
ポジション:センター
70年代後半に活躍したメジャーリーガー。
多くのプロ選手は当然学校などの教育機関で野球を学んでいる。しかしリフロアは19歳で刑務所に入るまで野球を一切経験せず、
刑務所の野球経験者から野球を教わってメジャーリーガーになった極めれて稀な経歴を持つ。







リフロアはミシガン州デトロイドの中でも最も治安の悪い地区と言われた東地区で生まれた。
父ジョンは定職せずに麻薬の売人として暮らし、ヘロイン中毒とアルコール中毒を罹患していた。リフロアは子供ながらにその父親を軽蔑していたという。
リフロアが前述した刑務所に入るまで野球をしなかった理由に
「父親が野球好きだったから」
と答えている。

だが、母親ジョージアは看護師として日夜勤勉に働き務めた後、リフロアにちゃんとした食事を作るという極めてハードな日程で母としての務めを果たしていた。
幼いリフロアは父という男を持った勤勉な母親に同情したのと同時に身の回りで唯一心服できる相手と理解し、母の言いつけを守って真面目に学校に通い、優等生として過ごした。
117名無しさん@おーぷん :2018/08/29(水)21:03:23 ID:h7I
しかし、9歳の時に友達に酒を勧められて喫煙をしたことがきっかけで、彼の人生は大きく変わってしまう。
タバコの味にすっかり虜となってしまったリフロアはその後も友達に進められるがままに、

11歳で酒
12歳で娼婦相手に脱童貞
13歳でマリファナ

そして15歳でヘロインに手を出すなど、かつての優等生ぶりは消え失せてしまった。気が付けばあの軽蔑していた父と同じように薬物中毒へと変貌してしまったリフロアは飲酒と薬物接種が学校にバレてしまい、退学されてしまう。
母は諦めずに違う学校に入学させるがリフロアは生活を改めることはなく学校にバレてその都度退学させられるという生活を送った。

1967年1月、ライフルを武装してバーにある酒と現金を強盗するが、駆け付けた警察官による逮捕され、ミシガン州の刑務所に収監される。
この時リフロアは19歳になり、正当は社会復帰は絶望的だった。
118名無しさん@おーぷん :2018/08/29(水)21:05:19 ID:h7I
早く自由になりたかったリフロアは刑務所内で野球をやり始める。
というのも、スポーツをすると刑務所内での印象が良くなって仮釈放される機会が増えるためだった。また、野球を通して看守と親しくなれるという利点も野球を始めたきっかけだった。
前述のとおり、リフロアは父の反発もあって野球をやったことはなく、ルールさえ知らなかった。そのため同じく野球をする受刑者からどうすればいいのか聞かなければならなくなり、リフロアが今まで野球をやってなかったことはすぐに広まった。
アメリカ人として野球を知らないという事実に
他の受刑者は野球をするリフロアを蔑み、嘲笑っていたという。だが、当の本人はプライドを傷つけられるよりも仮釈放されることを選んでいたため目立ったことはせず黙々と練習を続けていた。

これが功を奏して次第と親切に野球のルールと技術を教えてくれる受刑者と看守が増え、実力をぐんぐんと伸ばしていった。また彼は人並み外れた身体能力を持っており、何よりも足が速かった。


合理的、不純な理由で野球を始めたが、仲間に教えられるうちに野球の魅力に気づいたリフロアは出所する頃には刑務所内で太刀打ちできる人物はいなくなり、野球を始めて3年で刑務所内のスタープレイヤーとなった。
119名無しさん@おーぷん :2018/08/29(水)21:05:49 ID:h7I
塀の中のスター選手となったリフロアには多くの友人を持つようになり、その中にはデトロイド・タイガースと関わりのあるジミーという人物がいた。リフロアの実力を高く評価していたジミーは自分の人脈を駆使してタイガースの監督であったビリー・マーチンに紹介した。
マーティンはリフロアの足の速さに加えてまだ野球を始めてまだ間もないことに驚愕し、すぐに獲得しようとした。

しかし、リフロアがまだ服役中であったためにリフロアはテスト生としての参加もままならない状況であった。しかし、マーチンの尽力により仮釈放の許可が下り、さらに特例でタイガースのテスト入団の参加が許された。
リフロアはテストに合格してタイガースへの入団を果たした。
120名無しさん@おーぷん :2018/08/29(水)21:07:07 ID:h7I
初めに「レイクランド・フライングタイガース」というA+のチームで経験を積むことになる。するといきなり

102試合出場 打率.331 45盗塁

を記録して、この活躍が評価されてAAAへといっきに昇格した。
ちなみにリフロアを拾ってくれたマーチンは1973年途中タイガースの監督をやめ、レンジャースの監督に就任している。
121名無しさん@おーぷん :2018/08/29(水)21:08:16 ID:h7I
1974年8月1日、メジャーリーグ初デビューを果たし以後併用での起用が主となる。
新人の頃からリフロアの刑務所で野球を習ったという生い立ちが理由で人気を博し、タイガースの年間来場者数の向上に貢献したという。

翌年1975年にシーズンを通してレギュラーとして出場し、136試合に出場して

 打率,258(550-142) 8本塁打 37打点 28盗塁20盗塁死 出塁率.302 長打率.347 OPS.649

を記録し、野球を始めて8年目でMLB球団の主力選手にまで上り詰めた。


※当時のリフロア



122名無しさん@おーぷん :2018/08/29(水)21:10:23 ID:h7I
翌年1976年には規定打席を満たして初めて打率三割を記録。135試合に出場して

 打率,316(554-172) 4本塁打 39打点 58盗塁20盗塁死 出塁率.376 長打率.410 OPS.786

を記録する。
翌年1977年には初の200安打、二桁本塁打を記録し、154試合出場して

 打率.325(652-212) 16本塁打 57打点 39盗塁19盗塁死 出塁率.363 長打率.475 OPS.838

を記録する。
翌年1978年に155試合に出場して

打率.297(666-198) 12本塁打 62打点 68盗塁16盗塁死 出塁率.361 長打率.405 OPS.766

を記録し、盗塁王を獲得する。
また、タイガース選手が盗塁王を獲得したのは48年ぶりのことであり、
タイトル獲得、アリーグ記録になる27試合連続盗塁など盗塁にまつわる記録を多数更新したことによりリフロアの人気は絶頂期を迎え、これまでの人生を綴った映画、
「One in a Million: The Ron LeFlore Story」
というものまで作られ、評判を呼んだ。
なお、この年は盗塁以外にも30試合連続安打も達成している。

※映画の表紙



123名無しさん@おーぷん :2018/08/29(水)21:11:59 ID:h7I
1979年は300盗塁とシーズン78盗塁を達成するが、モントリオール・エキスポズの選手とのトレードで移籍が決定してしまう。
交換相手は投手で今季10勝5敗、防御率2.83(リーグ二位)を記録しているため釣り合ってはいるが、現在このようなトレードを行えばネットは大荒れだろう。現に移籍後のリフロアはキャリアハイの成績を残しているため、タイガースファンは大激怒だったという。

※エキスポズに在籍時のリフロア



124名無しさん@おーぷん :2018/08/29(水)21:13:54 ID:h7I
エキスポズに移籍したリフロアは139試合に出場し、97盗塁という大記録を記録する。盗塁死は19回、盗塁成功率は.836を記録した。一方で、打率.257を記録するなど打撃面は低迷する。

同年オフにはフリーエージェントとなり、シカゴ・ホワイトソックスに移籍する。しかし、長年にわたって多くの盗塁を試みたことによりリフロアの足はボロボロとなり、休み休みで出場しなければならなかった。
いつ怪我するかわからない外様のベテラン選手となったリフロアは2年在籍して173試合出場して64盗塁を記録するが、2年目のシーズンをもって解雇され、そのまま現役を引退する。


※ホワイトソックス時代のリフロア



125名無しさん@おーぷん :2018/08/29(水)21:17:26 ID:h7I
通算成績:MLB実働9年
1099試合出場 打率.288(4458-1283) 172二塁打57三塁打59本塁打 353打点 455盗塁142盗塁死 出塁率.342 長打率.392 OPS.734








刑務所で野球をしていた時に、仲の良い仲間からこういうことを言われたという。

「お前には才能がある。きっと大物になれるはずだ。その才能を無駄にするなよ。」

リフロアはこの言葉を深く受け止め、野球により一層取り組んだという。それはプロに入った後も態度を変えることはなくプレーし、その才能を無駄にすることなく野球人生を過ごした。

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ジガー・スタッツ選手(1897生)のマイナー通算成績wwwwwwwwwwwwwwww
CRITEO