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ジガー・スタッツ選手(1897生)のマイナー通算成績wwwwwwwwwwwwwwww

1名無しさん@おーぷん:2017/06/06(火)21:23:26 ID:qPD()
実働18年(1920,1921,1925,1926,1929-1942)
試合数 2790試合
通算打率 ,315
安打数 3356安打
通算打数 10657打数
二塁打 597本
三塁打 136本
本塁打 60本
得点数 1996点
シーズンベスト 199試合 打率,351(291-823) 68二塁打 18三塁打 4本塁打
なおMLBの安打数を合わせると通算4093安打になる模様



28名無しさん@おーぷん :2017/06/07(水)22:03:04 ID:Q0b
日本と違って二軍の大打者が結構おるんよな
こんな表あったわ
http://livedoor.4.blogimg.jp/baseballstats/imgs/1/d/1d0371ab.gif
29名無しさん@おーぷん :2017/06/07(水)22:42:37 ID:LAF
サムネが股間どアップで草
30名無しさん@おーぷん :2017/06/09(金)18:21:41 ID:QaQ()
>>28
ジガーさんより撃っている人いますね…(困惑)

>>29
wikiから拝借したで
31名無しさん@おーぷん :2017/06/09(金)22:30:35 ID:QaQ()
それよりマイナーで1000安打以上打っている人がこの表だけでも3人もいるんやね(本当はもっといるだろうけど)

調べてみると色々と理由があるみたいやね
Smead Jolleyは成績をみる限り打撃は素晴らしかったけど外野手にしてはシーズン44失策を記録している
当時の粗悪なグローブやらを考慮しても相当な守備難が理由であまりMLBに上がれなかったのかもしれない

George Van HaltrenはMLBを代表する選手だったけど36歳(もしくは38歳)となった1902年に足首を故障し翌年1903年のシーズンを終えた後戦力外となる
しかし怪我をする前まで当時のMLBではトップスター選手だったジョージ選手、夢を諦めきれないのかマイナーリーグで再起を図ることにした(1909年に完全に現役を引退する)
32名無しさん@おーぷん :2017/06/09(金)22:45:45 ID:lGO
時代が時代とはいえ今では考えられん数字が平気で出てくるんやな
44失策やらマイナーで3000本やら
33名無しさん@おーぷん :2017/06/09(金)23:00:28 ID:QaQ()
そしてSpencer Harris
この人は1921年、二十歳でMLB選手を目指すためマイナーリーグで経験を積んでいた
5年後、その活躍が認められてメジャーデビューするが2年続けて期待通りの活躍ができず1927年にランクAからやり直しする
その後も2度メジャー復帰を果たすが同じように落とされる
その後の1930年~1948年の19年間、彼はマイナーで現役を続け
マイナー通算成績
試合3144
打席11449
打数11061
打率,320
安打3538
二塁打726
三塁打148
本塁打255
打点168(不明瞭な年が大多数を占めている)

この内打席打数安打二塁打はMLBマイナー記録となっている
34名無しさん@おーぷん :2017/06/09(金)23:01:23 ID:QaQ()
>>32
しかもGeorge Van Haltren以外は皆同年代やからな
35名無しさん@おーぷん :2017/06/09(金)23:21:14 ID:ALd
マイナーだけでこんな長期間現役続けられたって謎やな
制度上の違いなのか
36名無しさん@おーぷん :2017/06/09(金)23:24:35 ID:QaQ()
ちなみにこの人の面白いところは
1928年のシーズン成績(2A)
169試合打率,327(219-669)41二塁打4三塁打32本塁打364塁打25盗塁87四球56三振 出塁率,410 長打率,544

MLB各球団「ファッ!?なんやこのおっさん!?(驚愕)即戦力やんけ、取ったろ!」
1929年シーズン成績(MLB)
6試合打率,214(3-14)1二塁打1打点1盗塁
球団「はー、つっかえ。シーズン途中やけど降ろしたろ」
1929年シーズン成績(2A)
154試合打率,340(202-594)42二塁打7三塁打14本塁打300塁打 長打率,505

まさに2軍の帝王
37名無しさん@おーぷん :2017/06/09(金)23:26:33 ID:QaQ()
>>35
そこは本当に謎や
トッププレイヤー(?)が幅を利かせていたんかね?
38名無しさん@おーぷん :2017/06/09(金)23:26:55 ID:QaQ()
またなんかあったらここで書くで~
ほな、また
39名無しさん@おーぷん :2017/06/22(木)07:02:36 ID:osz
テスト
40(主)消えたけど1やで :2017/07/31(月)20:49:40 ID:Cap
wiki見てたら色々と面白い選手が見つかった
くっそスローペースであげるけどよかったら見てください
41名無しさん@おーぷん :2017/08/01(火)02:09:38 ID:VSC
ジョージ・ペイン(George Payne,1889年5月23~1959年1月24日)
ポジション:投手




1889年、ケンタッキー州に生を享ける。1913年、24歳でマイナー入りをしてそれから7年間(1918年は出場なし、第一次世界で出兵していたと思われる)、マイナーで生活する。
そして8年目の1920年、シーズン途中でメジャーデビューを果たすが12登板 1勝1敗 投球回29.2 防御率5.46を記録するなど散々結果で、シーズン途中にマイナーに戻ってしまう

彼の人生でMLB選手として出場したのはこの年のみであり、普通であれば記録のみが残り忘れ去られてしまうような選手であったが、彼には偉大な記録を持っていた

彼は1920年にマイナーに落ちて以降、20年間マイナーリーガーとして生き続けた
28年間マイナーで投げ続け、
900登板、348勝262敗、投球回数5322.1
という成績を記録する。
これら全てはマイナー記録であり今後更新することのない記録と言われている
42名無しさん@おーぷん :2017/08/01(火)15:07:06 ID:m70
超強化版マイナーの帝王
43名無しさん@おーぷん :2017/09/24(日)04:51:47 ID:RZv
アデラーノ・リベラ(Adelano Rivera, 1910年 ~1945年2月10日)
ポジション:センター






1910年某日、フィリピンにて産まれる。幼少期のことはネットで調べても前々のっていないので割愛します
いつ頃かはわかっていないが、リベラはマニラ税関の社会人野球チーム、カストムス軍に所属する
このチームはフィリピン屈指のチームでリベロはその中でも主力選手として活躍していたという

日本プロ野球史でリベロの名が書かれたのは昭和14年(1939年)1月22日、読売ジャイアンツ(以下巨人軍)がフィリピン遠征を行ったことから始まる
読売新聞は「巨人軍比島へ船出」の見出しと共にジャイアンツのフィリピン遠征を伝えている。
44名無しさん@おーぷん :2017/09/24(日)04:52:10 ID:RZv
1月28日の遠征第一戦、巨人軍は3対0で勝利するが、カストムス軍の四番、リベラはスタルヒンから3打数2安打を記録。
2月3日の遠征第三戦、カストムス軍との二度目の対戦でもスタルヒンと対戦して2打数1安打1打点を記録し、2対0で巨人軍は敗戦する。

遠征第六戦、カストムス軍との三度目の対戦は川上哲治が先発、川上は5回まで投げ、6回からスタルヒンがバトンタッチ。
リベラはこの試合で4打数3安打1打点を記録し、カストムス軍が3対2で勝って対戦成績を2勝1敗とするなど大健闘する
45名無しさん@おーぷん :2017/09/24(日)04:52:57 ID:RZv
巨人軍はフィリピンで9試合を行い7勝2敗を記録、2敗はいずれもカストムス軍に喫したもので、中でもリベラに9打数6安打2打点を記録されたことが強く印象に残ったようで、この時のテーブルスコアには「リヴェラ」と表記されている

また親会社の読売新聞も同年5月3日にリベラを

「比島のベーブ・ルース」
として、
「“比島ベーブ”巨人入り」

という見出しでリベラの巨人軍入りを報じている

続きに「巨人軍は今回新たにマニラ随一の野球選手『アチラノ』・リヴェラを加えた」と書かれている

「アチラノ」が「あちらの=フィリピンの」を洒落て付けたニックネームであったのか、アデラノを聞き違えていただけなのか、今でもよくわかっていないようである
46名無しさん@おーぷん :2017/09/24(日)04:53:20 ID:RZv
そういった経緯で1939年に巨人軍入りを果たしたリベラ、主に5番打者として76試合に出場(シーズン試合数86試合)し、打率,268(69/257)6本塁打 42打点 4盗塁を記録し、チームの優勝に大きく貢献する。
中でも8月24日名古屋金鯱軍戦、巨人における球団史上初の満塁本塁打を放つなど、ここ一番という場面で遺憾なく実力を発揮していることがわかる
47名無しさん@おーぷん :2017/09/24(日)04:53:38 ID:RZv
しかし、リベロは1年だけ在籍しただけで母国フィリピンに帰国している
当時の巨人軍が使える選手をわざわざ手放すわけないし、大日本帝国軍が戦争を吹っ掛けてもいないので理由は不明である

帰国後は数年間行方不明であったが、地元フィリピンで現地人による野球チームを結成して野球を楽しんでいたという。
また出兵した元同僚とも再開して野球の試合を行ったり、思い出話に花を咲かせたりして楽しんでいたという。
しかし、この報告を最後にリベロは終戦後も姿を現すことはなかった。
48名無しさん@おーぷん :2017/09/24(日)04:55:10 ID:RZv
戦後22年が立った1967年、
「あの東京オリンピックの感動をもう一度」
ということで開かれたユニバーシアード東京大会、この大会にリベラの娘2人がバレーボールフィリピン学生代表選手として来日したという情報が出る

生き残った戦前からの選手たち巨人軍フロントに

「あのリベロの娘達が日本に来てますよ!」

と伝えた
しかし球団は

「リベロ?誰だそれは?」
「戦前に外国人選手がいるものか」

として話を聞いてもらえなかったという
リベロはいなかったことにされていた
中でも当時巨人軍監督として君臨していた川上哲治が元同僚として唯一面会し、リベラについて尋ねた

すると
「父は税関吏として働いた後フィリピン独立義勇軍に身を投じ、日本軍と戦い戦死した」

と、川上に伝えられ、戦後22年目にして元同僚の死を知ったという
49名無しさん@おーぷん :2017/09/24(日)04:57:09 ID:RZv
最後に「40年・野球界二月号」に掲載された優勝座談会でのリベラと巨人軍マネージャーであった鈴木惣太郎のやり取り
つまり、リベロが最後に長く日本にいたときのももを張るで
50名無しさん@おーぷん :2017/09/24(日)04:57:37 ID:RZv
鈴木「(英語でリベラに)君は今夜約束があったのを待たせて気の毒だった。簡単に話をまとめて行ってもらうことにしよう。先ずマニラの野球と日本の野球を比較してどんな風に見るか?」
リベラ「(英語で答え鈴木氏訳す)日本の野球はマニラのベースボールよりずっと進んでいる。と言っても、単に打つこととか、守備とか、走塁とかを比較したのではマニラの野球は日本の野球に劣ってはいないのだが、これを纏めてチームとした時に日本の野球の方が進んでいるのです。」
鈴木「それでは『打撃はマニラ』の方が強いというのか?」
リベラ「そうです、マニラの選手は日本の選手よりもよく打ちます。」
51名無しさん@おーぷん :2017/09/24(日)04:57:54 ID:RZv
鈴木「守備の比較は?」
リベラ「マニラの方が遥かに素早いのです。走るのもマニラの選手の方が速いです、けれど打撃力とか、守備力とか、走塁の力を十分に生かすことにかけては、マニラの野球はずっと後れているのです。」
52名無しさん@おーぷん :2017/09/24(日)04:58:28 ID:RZv
鈴木「では投手力はどうか?」
リベラ「現在ではマニラの野球は十数年以前に比較するとずっと下火になって熱がないのです。
だから、十年も前にいた左利きのハロピリオなんか、タイガースの若林君よりチェーンジ・オブ・ペースが巧く、コントロールがよく、大したものでしたし、
もう一人の右利き投手ビルツフォなんか、スタルヒンよりずっと球が速く素晴らしいものでしたけれど、今はベースボールに熱がなくなったのでこうした良いピッチャーが出なくなりました。
…それでも今度巨人軍が行ったら、相当苦戦させるだけの投手は沢山居ります。」
鈴木「日本ではマニラの審判は拙いという評判だが、実際拙いのか、或は標準が違うのか?」
リベラ「拙いことはないし、勿論公平です。けれどもマニラではボールとストライクの採り方を規則書の通り解釈しているのでストライクの範囲が日本より狭いから、日本の選手が遠征して行くと勝手が悪いのでしょう。」
53名無しさん@おーぷん :2017/09/24(日)04:59:00 ID:RZv
鈴木が黙り混み、沈黙が続く
リベラが口を開く
54名無しさん@おーぷん :2017/09/24(日)04:59:14 ID:RZv
リベラ「実際マニラのベースボールはそう馬鹿にしたものではありません。素質に於いては日本に負けないのですが、ただベースボールを知っている人が少ないことと、よい指導者がないことです。
ミスター・スズキ、あなたがマニラに来て永く留っていて、マニラのベースボールを実際指導してくれたら、必ずと強くなると思いますよ。」
55名無しさん@おーぷん :2017/09/24(日)04:59:29 ID:RZv
鈴木「僕は未だマニラに行ったことはないが寒むがりやの僕には適当なところらしいね、けれど僕は矢張り日本がいいよ。…ところでリベラ、君はピンチに強いが何か秘伝でもあるかね?。」
リベラ「何もない…ただ打てるという自信だけは何時も持ってます。」
56名無しさん@おーぷん :2017/09/24(日)05:00:41 ID:RZv
鈴木「君は大切な時によく打って…例えば対金鯱軍の試合、満塁でホームランを飛ばして勝っているが、あれなんか強い神経の持主でないと出来ない仕事だね」
リベラ「いやいや単に『幸運だった』のですよ…。」
鈴木「…有り難うリベラ…君は約束の時刻に大変後れている、だから先へ失礼させてもらいなさい…」

そういわれるとリベラは先に退席した
この「約束の時刻」とはたぶん帰国のことで優勝決定時には帰国することがもう決まっていたと思われる
57名無しさん@おーぷん :2017/09/24(日)05:21:39 ID:Ed4
日本軍と戦って戦死というのが複雑な気分
58名無しさん@おーぷん :2017/10/09(月)00:08:00 ID:sji
ダミー・ホイ(William Ellsworth "Dummy" Hoy、1862年5月23日 - 1961年12月15日)
ポジション:センター
聴覚障害を抱えながら通算2000安打、600近い盗塁を記録、アメリカンリーグ初年度の優勝メンバーの一人でもある伝説的な人物




1862年、アメリカ合衆国オハイオ州に産まれる。
3歳の時に髄膜炎が元で難聴を患い、聾学校に通う。学生時代は勤勉で成績優秀、障害者でありながらスポーツマンであったといい、卒業する際には卒業生の総代をつとめている。
卒業後は靴屋を開き、仕事の合間には近所の子供を集めては野球をして暮らしていたという。

24歳のときにプロに誘われて地元を離れ、2年後の1888年、ワシントン・ナショナルズに入団してメジャーの選手となった。
この時にホイはクラブハウスに、

『ご存知の通り私は耳が聞こえない。そこでフライを捕る時に大声を上げるので、二塁手、ショート、レフト、ライトはその声を聞いて私との衝突を避けてくれ』

と書いた紙を貼り出したという
59名無しさん@おーぷん :2017/10/09(月)00:08:27 ID:sji
最初の年は138安打中118本が単打とアヘアヘ単打マンであったが82盗塁、29打点、69四球、48三振、打率,274、出塁率,374と一年目にしては優秀な成績を記録している。
さらにホイは守備が上手く肩にいたっては

「まるで大砲を担いでいるようだ」

と言われるほどで、3塁走者をセンターからノーバウンドで本塁まで投げてアウトにさせたというエピソードもある
60名無しさん@おーぷん :2017/10/09(月)00:10:30 ID:sji
その後の成績は割愛するが1891年、セントルイス・カージナルスで
打率,292(163安打559打数)、13二塁打、5三塁打、5本塁打、64打点、59盗塁、117四球(リーグトップ)、25三振、出塁率,424
相変わらずにアへ単であるがクッソ高い出塁率とそのわりには少なすぎる四球数が特長(なお在籍はこの年のみ)

また、36歳~37歳の時に在籍していたルイビル・カーネルズ(すでに消滅)時代の2年目では
打率,305(194安打636打数)、17二塁打、13三塁打、5本塁打、49打点、33盗塁、62四球、31三振、出塁率,376

9年前と比べてところどころ衰えが見えるが37歳にしては十分だろう(妥協)

また、1901年にアメリカンリーグが創設された年に、1年だけシカゴ・ホワイトソックスに参加する。既に40歳に近かったが

打率,294(155安打527打数)、60打点、27盗塁、86四球(リーグトップ)、23三振、出塁率,407

を残し、ホワイトソックスのリーグ優勝に貢献した。




ルイビル・カーネルズ時代のホイ(画像一番右下の人物)、1898年に撮影
61名無しさん@おーぷん :2017/10/09(月)00:10:58 ID:sji
しかし、流石に衰えがを隠しきれず、40歳を迎える1902年のシーズン、シンシナティ・レッズに移籍した彼はこの年かぎりで現役を引退している。

その後一年だけマイナープレーした後完全に引退し、故郷オハイオ州に農場を購入し、酪農家として余生を過ごす。
妻は同じ聴覚障害者で、3人の子供を持つなど子宝に恵まれる。その子供達も、それぞれ弁護士や学校の教師になった。

ホイが最後に観衆の前に姿を見せたのは99歳の時で、ヤンキースとレッズの間で争われた1961年のワールドシリーズ第3戦の始球式に招かれている。
当時ホイはメジャーリーグ選手の中では最も長生きした人物であったが、同年12月にシンシナティで死去。
2003年にレッズの球団殿堂入り選手となっているが、アメリカの聴覚障害者スポーツ連盟は1991年以降、ホイのアメリカ野球殿堂入りへ向けた各方面への働きかけを続けている
62名無しさん@おーぷん :2017/10/09(月)00:12:54 ID:sji
通算成績:プロ生活13年
1797試合、打率,288(2048安打7115打数)、248二塁打、121三塁打、40本塁打、725打点、596盗塁、1006四球、345三振、出塁率,386、長打率,374、OPS,760




(ワシントン・ナショナルズ時代ぼ野球カード)
63名無しさん@おーぷん :2017/10/09(月)00:28:48 ID:nE8
無事是名馬タイプやな
そういや西武にも耳の聞こえない選手おったな
64名無しさん@おーぷん :2017/10/09(月)09:25:59 ID:sji
>>63
野手でいたんやね知らんかったわ
https://www.google.co.jp/url?sa=t&source=web&rct=j&url=https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%25E5%25B1%25B1%25E7%2594%25B0%25E9%2581%25A5%25E6%25A5%2593&ved=0ahUKEwji-ZbDo-LWAhWDHJQKHVdWCaUQFggkMAA&usg=AOvVaw3IuTKEMutgyOptlmn-5gyH
65名無しさん@おーぷん :2017/10/29(日)17:27:57 ID:4nS
ルイス・ソカレキス、またの名はチーフ・ソカレキス(Louis Francis "Chief" Sockalexis, 1871年10月24日 - 1913年12月24日)
ポジション:ライト
MLB史上初のインディアン選手




青年時代からインディアンの中でも並外れた身体能力を示し、川幅180mはある川の対岸へボールを投げたら届いたという逸話が残している。
また家は学校に通える財力を持っていたので大学に進学しここで野球をプレーした。投手と外野手をつとめ、主力選手として活躍する。
在籍中、ソキレキスは二人の教授の協力のもと、遠投をしてどれほど飛ばせるか計ることになり、このとき126m投げたと記録されている。

大学卒業後、クリーブランド・スパイダーズ(クリーブランド・インディアンズとの直接的な関係はない)にテスト入団する。入団一年目は持ち前の身体能力を遺憾なく発揮して

66試合出場(131試合中)、打率.338(94安打278打数)、9二塁打8三塁打3本塁打、42打点、16盗塁、四死球21、出塁率.385、長打率.460、OPS.845

を記録し、一躍その名が広まることになる。
66名無しさん@おーぷん :2017/10/29(日)17:28:04 ID:4nS
しかし、プロ入り一年目でソキレキスはその後の人生を決めるミスをおかしてしまう。
ソキレキスは在学時代から酷い飲酒癖があり(これはインディアン酒造・飲酒の文化がなかったため、過度な飲酒に陥ったという)、酔っぱらっては羽目を外していたという。
1897年7月4日、パーティに出席したソキレキスはここで泥酔するほど酒を浴び、ふざけて家の二階から飛び降りるという暴挙をする。結果着地に失敗して足首に後遺症を残してしまう。以後引退まで試合には散発的出場するようになり、成績も日に日に悪くなっていく。

1898年:2年目
21試合出場、打率.224(15安打67打数)、2二塁打、10打点、盗塁なし、四死球2、出塁率.246、長打率.254、OPS.500

1899年:3年目
7試合出場、打率.273(6安打22打数)、1二塁打、3打点、盗塁なし、四死球1、出塁率.304、長打率.318、OPS.622

最後は3年目の5月13日を最後にスパイダーズを退団、退団後は生まれ故郷に帰省して子供たちに野球を教えていたという。
1913年12月24日、心臓麻痺で死亡。満42歳。

死後2年後、当時のクリーブランド・ナップスはチーム名「ナップス」の元となった選手が退団したことにより新たな愛称を募集した結果、「インディアンズ」に決まった。これは史上初のインディアン選手となったソキレキスの活躍を讃えるものであるとされている。
67名無しさん@おーぷん :2017/10/29(日)17:28:42 ID:4nS
ちなみ彼の愛称は

"The Deerfoot of the Diamond"

これは19世紀中盤に存在していたインディアン有名な陸上選手からきていると思われる




68名無しさん@おーぷん :2017/10/29(日)17:34:58 ID:5mp
そういや白人はインディアンとの交渉の時騙しやすいようにお酒を使ったりした歴史もあったらしいな
69名無しさん@おーぷん :2017/10/29(日)17:42:50 ID:DAE
早世したのも飲酒のせいやろなあ
70名無しさん@おーぷん :2017/11/05(日)21:24:14 ID:VVY
杉下茂の兄、安祐さん(1922-1945)




杉下家の長男として産まれた安祐さん
幼少期からスポーツ少年で特に熱中したのが野球で
弟、杉下茂を野球に誘ったの安佑さんで、一緒に楽しみ競い合いながら野球に触れていったという。
安佑さんの実力は同学年の中でも優秀で、おまけに頭もよく、将来は社会人野球で活躍することを夢見ていた。
しかし、二人が幼い頃に父親は亡くなり、家計は母親一人が支えるという苦しいものだった。
その状況で男二人が野球できるほどのお金を確保することは出来ないと考えた安佑さんは野球の道を諦め、自分が一家の父になりことを決意をする。
ただ、弟にはどうしても野球を続けてほしく、自身が野球の道を諦めた後も弟を支援し、自分の小遣いを削って野球道具を与えたりしていたという。

大学卒業後は茨城の神ノ池海軍航空隊に所属。
1945年3月21日に鹿児島県鴨池から特攻兵器・桜花で沖縄に出撃し、戦死する。満23歳。



戦後、プロ入りを果たし通算200勝達成と三度の沢村賞を獲得、プロ野球史に名を残す選手になった弟さん、自身の成功を

「私の野球人として成功は兄がいたから。だから今ここにいる」

と話している。
71名無しさん@おーぷん :2017/12/27(水)23:44:36 ID:HRN
ジョン・アンダーソン (John Joseph Anderson、1873年12月14日 - 1949年7月23日)
ポジション:外野手・一塁手
ノルウェー・サルプスボルグ生まれのMLB初のノルウェー出身の野球選手
人を元気にさせるようなプレースタイルから「Honest John」と呼ばれた






詳しい経歴は分かっていないが幼少期にノルウェーで生を受け、1894年にニューイングランドのヘイバービルという球団所属するまでの間にアメリカに移住したと思われる。
1894年8月、400ドル(800万ほどと思われる)の金銭で当時のブルックリン・グルームス(現ロサンゼルス・ドジャーズ)に入団する。入団から2年目1895年に外野のレギュラーとなり、

103試合 打率.288(423打数122安打) 11二塁打14三塁打10本塁打
89打点 24盗塁 四死球17 出塁率.316 長打率.452 OPS.767

を記録する。

そして、次の年から

1896年
108試合 打率.314(430打数135安打) 23二塁打17三塁打1本塁打
55打点 37盗塁 20四死球 出塁率.344 長打率.453 OPS.797

1897年
117試合 打率.325(492打数160安打) 28二塁打12三塁打4本塁打 85打点 29盗塁 24四死球 出塁率.357 長打率.455 OPS.812

と21歳〜24歳の4年間でここまでやれればチームの顔で大人気だろうが彼がいた時代は19世紀末期のアメリカ、そう上手くは進まない。
72名無しさん@おーぷん :2017/12/27(水)23:46:25 ID:HRN
1897年オフ、当時ナショナルリーグの常勝チームだったボルチモア・オリオールズ(現存球団とは別)のオーナーだったハリー・フォン・デル・ホーストが、ブルックリンの経営に参画してオリオールズと球団経営を掛け持ちするという。
オーナーはブリックリンを強くするため、オリオールズが劣化しない程度に、またブリックリンが現状より強くなるようにするため、オリオールズの選手をブリックリンへと移籍させている。
えぇ...(困惑)

そして始まった1898年のシーズン
ブリックリンの主力だったアンダーソンは元オリオールズ選手にレギュラー奪われて控えに甘んじていた。
しかし同年5月に『条件つき移籍』という今Jリーグなどで見られる期限付き移籍のようなものでワシントン・セネタース(当時)に4ヶ月だけ所属し、

110試合 打率.305(430打数131安打) 28二塁打18二塁打9本塁打 71打点 18盗塁 35四死球 出塁率.357 長打率.516 OPS.873

と大暴れするが、契約通りに再びブルックリンに復帰した。

所属チームが代わる中で、アンダーソンはこの年リーグ最多の22本の三塁打を放ち、また長打率でリーグ1位という活躍をしている。
73名無しさん@おーぷん :2017/12/27(水)23:47:20 ID:HRN
古巣に戻ったあと、元々のレギュラー奪い返し返り咲いたアンダーソンだが、1899年限りで彼はなぜか退団している。

その後1年間は音信不通(というより調べてもでない)だったが、1901年にアメリカンリーグが発足するとミルウォーキー・ブルワーズ(現ボルチモア・オリオールズ)に移籍する。
年齢とともに成績は安定し、1901年には35盗塁はリーグ7位の成績、その後彼は3球団を渡り歩いた。

持ち前の元気溢れるプレースタイルで彼はどこへ行っても人気者となったが、大きなポカをすることも多かった。
代表例として1904年、1905年の2年連続で満塁の場面で盗塁あるというものである。
1905年のほうは、1点差で迎えた9回2アウトという場面で、1塁ランナーだったアンダーソンは突然走り出しタッチアウトでゲームセットになってしまったという。その後彼はシーズン中にトレードに出されている。

⬇︎上記のプレーをした頃のアンダーソン





1908年のシカゴ・ホワイトソックス在籍を最後にメジャーから退き、1949年にマサチューセッツ州で亡くなった。満75歳。
74名無しさん@おーぷん :2017/12/27(水)23:48:42 ID:HRN
通算成績:プロ生活14年
1636試合 打率.290(6345打数1843安打) 328二塁打124三塁打50本塁打 978打点 338盗塁 363四死球 三振346 出塁率.329 長打率.405 OPS.734






75名無しさん@おーぷん :2017/12/28(木)00:09:13 ID:bJg
満塁で盗塁は草
76名無しさん@おーぷん :2017/12/29(金)16:17:49 ID:cZv
メジャーならこんな話が
日本語のソースこれしかないし記事書いた本人も翻訳が会っているかわからないと一応注意入れとるけれど

1試合で24失点を喫した投手、アラン・トラヴァースとは何者か?
http://www.akisane.com/entry/Who-is-Allan-Travers
77名無しさん@おーぷん :2017/12/29(金)19:39:15 ID:U8J
>>76
ワイも個人的に調べたけどこれ以外どこにも載ってないな
こういうことがあったのは知ってたけど、どういう人がプレーしたかまでは知らんかったから貴重な話教えてくれてサンガツ

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ジガー・スタッツ選手(1897生)のマイナー通算成績wwwwwwwwwwwwwwww
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